以前リハーサルの様子を取材した鶴見室内管弦楽団の演奏会にて出会った、指揮者 伊藤 翔さん。今回はそのご縁でお話を伺いました。
桐朋学園大学指揮科卒業。ローム音楽財団の奨学金を得てウィーン国立音楽大学へ留学。指揮を秋山和慶、小澤征爾、黒岩英臣、E・アチェル、湯浅勇治、K・マズアの各氏に師事。第5回ルトスワフスキ国際指揮者コンクール第2位。第1回ニーノ・ロータ国際指揮者コンクール第1位、及びオーケストラ賞を受賞。第26回エネルギア音楽賞受賞。これまでに大阪フィル、大阪響、神奈川フィル、九州響、京都市響、群馬響、新日本フィル、仙台フィル、都響、中部フィル、東京シティ・フィル、東京フィル、東響、名古屋フィル、日本センチュリー響、日本フィル、兵庫芸術文化センター管弦楽団、広島響、山形響等に客演。海外では、ジェショフ・フィルハーモニー管弦楽団やアブルッツェ交響楽団への客演が好評を博す。東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団指揮研究員、神奈川フィルハーモニー管弦楽団副指揮者、東京混声合唱団コンダクター・イン・レジデンスを歴任。また合唱指揮者として2017、2018年NHK交響楽団の公演を成功に導いた。
聴くことから始まった、指揮者としての歩み
ー伊藤さんはどのようなきっかけで音楽を始められましたか?
私の母がピアノの先生をしていて、父も趣味でピアノを弾く人だったんです。なので、なんとなく常に家の中に音が鳴っているような環境ではあったんですね。自分の個人的な体験としては、記憶にある限り…多分2歳か3歳の時だったと思うんですが、親にカセットテープをいくつか買ってきてもらって、とにかくそれを聴くのが大好きだった記憶があります。最初に聴いたのはリヒテルの平均律だったと思います。小さいながらもカセットデッキを自分でかけて1日中聴いていましたね。
あと私の母親がレコード収集をしていたこともあって、家にたくさんレコード(LP)があったんです。幼稚園に上がってからは自分でかけられるようになったので、家に帰ってきたらまず「今日は何を聴こう」ってLPをターンテーブルの上にかけて、とりあえず1回聴くということをしていました。小学校の頃からは徐々にCDの流れになっていきましたが、同じように学校から帰ってきてはすぐ聴いていました。とにかく音楽を聴くことが好きだったので、そのうち「自分でもやってみたい」と思うようになったんでしょうね。私の母いわく、自分から「ピアノをやってみたい」と言ったみたいです。親としては、音楽は好きだけど子供にやらせなきゃ、とは思っていなかったらしいですが、自分でやりたいと言うのなら、と。とりあえず母にピアノを習うところから、始まりました。
ーピアノはおいくつから?
母以外の方に習って本格的にやり始めたのは7、8歳からです。
ー以前伊藤さんが「もともとヴァイオリンとピアノをやっていて、ある時ピアノを選び、その後指揮者になった」と、あるリハーサルの休憩時間中にお話されていたのを少し伺った時から気になっていたのですが…そこにはどういった経緯があったのでしょうか?
当時はオーケストラのレコードばかり聴いていて、「オーケストラっていいな」と漠然と思っていたんです。家には1つの作品に対して何種類もの演奏があったので聴き比べをしていたのですが、どれもテンポが異なるので「同じ作品なのになんでこんなに違うんだろう?」と思って、自分の母親に質問したんですよね。そこで「どうやら『指揮者』っていう人がいて、何かしらのことをやっているらしい」という情報を掴んだ。その時から“オーケストラ”、“指揮者”という存在に興味を持つようになりました。でもその時は、指揮者がどういう動きをしているか人なのか、まだ分かっていませんでした。というのも、家にテレビがなかったので映像で確認することができなかったんです。
あとはピアノを習うようになって、ベートーヴェンのソナタなどを弾く中で「オケだったらここの部分はフルートかな」「ここはチェロのソロかな」など、自分の頭の中で想像するようになってきました。そこでも、やっぱりオーケストラ好きだな、と。
そうこうしているうちにテレビが家で観られるようになって、指揮者がどんなことをしているのか、そしてオーケストラにはヴァイオリンが圧倒的に多い、ということが分かってきたんです。当時は多分ヴィオラセクションもヴァイオリンだとカウントしてしまっていたと思うんですが、見るからに顎に挟んで弾いている楽器が多い!って(笑)自分はオーケストラにも指揮者にも興味があったので、オーケストラ内の楽器を何か1つやってみたい、と思うようになり、母に「ヴァイオリンもやってみたい」とお願いしたところ「これ以上は…。」と言われ、しばらくお預け。2、3年くらいはやらせてもらえなかったんですが、ずっとお願いし続けて暴れて…最後は親が折れて小学校4年生でやっと習わせてもらえるようになりました。
ー高校や大学の進学先を決めるタイミングで音楽の道に進もうという決断をされた時に、不安や理由などはありましたか?
うーん、音楽くらいしか好きなことがなかった。小学高学年までは野球も好きでやっていたんですが、コンクール前の突き指が怖くてやめてしまいましたね。ちょうど音楽の勉強も忙しくなってきた頃でした。でも、音楽をやるしかないと小さい頃から思っていたので、今の道に進むことに抵抗はなかったです。ただ、桐朋女子高等学校音楽科(男女共学)(以下、桐朋)に入学した時には「一般の人とは違う人生を歩むんだな」「もう後戻りできないかもしれない」といったちょっとした緊張感はありました。でもこのまま進むしかない、という感じ。ちなみに高校は作曲科で入りました。ピアノでもヴァイオリンでもなく。
私は高校に入学するまでは地方に住んでいたので、ヴァイオリンやピアノ、作曲の勉強など総合的に音楽を勉強できる環境がなかなか見つからなくて、小学校5、6年生の時に東京・仙川にある桐朋学園附属の「子供のための音楽教室」に行ってみたんです。ただその教室は東京だから通うのが大変。事情を相談したところ、「毎週通うのが難しければ個人の先生に習ったらどうですか?」と紹介いただき、桐朋の高校や大学で教鞭を取っている作曲とピアノの先生に習い始めました。そこからは隔週で通って、1回のレッスン時間を多めに取っていただく形で、その状態が高校入学するまで。だからそのまま桐朋の高校を受験することは、割と自然なことでしたね。
あとは将来的に指揮をやりたいなと思っていたので、将来的に指揮を勉強できる学校を探していました。指揮科がある高校はないのですが、大学に指揮科がある桐朋は小澤征爾さんなどが卒業生で、ご活躍されている先生方もたくさんいらっしゃるから、桐朋の高校で勉強しようと決めました。
ーそもそも高校受験の時に、今まで習っていたピアノやヴァイオリンではなく、なぜ作曲科を選ばれたのでしょうか。
自分で作曲の勉強は指揮者に必要なんじゃないかと思っていまして。受験のことも含め将来のことを先生に相談したり、作曲の先生を紹介していただきました。将来的に指揮者になるために作曲に行くという流れで、まずは基礎的な和声とか形式論などの勉強から始まりました。
当時、高校の募集要項の作曲科欄には『指揮科志望の方はここで受け付けます』というようなことが書いてあったんです。つまり『高校に指揮科がない代わりに作曲の勉強をし、将来的に大学で指揮を勉強できる環境があります。』と明記されていた。ピアノ科としての受験も考えましたが、とにかく試験に追われる日々であることと、高校1年生の時には副科が取れないそうなんです。それだと作曲とヴァイオリンの勉強ができなくなっちゃうから困ったな、と思って。総合的に判断し、”作曲科”として入学しました。
※詳しくは、桐朋学園ホームページをご覧ください。
ー専攻を作曲とし、副科を取ることで入学後もヴァイオリンを続けることができたんですね。
はい。ヴァイオリンは篠崎功子先生に師事していました。作曲専攻、副科ヴァイオリン、副科指揮。作曲科では副科が複数取れる仕組みです。
ー高校での盛りだくさんな日々を経て、大学生活はどのように過ごされていましたか。
当時、基本的には高校も大学も同じ校舎だったので、特に変わり映えはしなかったです。指揮の勉強は高校の時から始めていたのと、「もぐらオーケストラ」という高校のクラブ活動みたいなのがあったので、そこで指揮をさせてもらっていましたし。
とても良かったことは、高校・大学時にとにかく色々な方の試験の伴奏をできたことです。作曲科の試験は曲を提出するだけというのもあって、締め切りが他の専攻よりも一足先に終わるので、提出した後は時間が空く。ピアノ科の方だと自分たちの試験があって大変なので、伴奏をしてほしいというお話を頂くことが多かったです。さまざまな楽器を勉強するためにも、とにかく片っ端から引き受けていましたね。伴奏者としてレッスンについていくと、その先生からアドバイスをいただくことができるので、室内楽のレッスンを受けているような…良い経験になりました。
例えば、ブラームスやチャイコフスキー、シベリウスのヴァイオリン協奏曲など、暗譜できるくらいたくさん弾く機会があるような曲でも、先生によってレッスンで言われることが違ったりして、とても勉強になりました。もちろん先生方には非常にお世話になりましたし、熱意のあるレッスンでしたが、学校の授業以外のところでも、そうやって仲間と一緒に学べる環境があって良かったと思います。
ウィーンへの憧れ、留学の経験
ー大学卒業後、留学をされたということですが、留学についてはいつから見据えていたんですか。
小さい頃からお世話になっているウィーン出身ピアニストのイエルク・デームスさん先生がいて、たまたま日本に来日してマスタークラスをしていた時にレッスンを受けました。その先生が夏に、オーストリア(ウィーン、ザルツブルグ)の郊にある別荘でマスタークラスをやっているというお話を聞いて、小学校の頃に何回か受けに行っていたんですね。なので、海外で長く勉強したいという憧れ、ウィーンに対する憧れ、気持ちが最初からありました。
ー留学することについては、イメージがすでにあったんですね。
大学1年生の時に指揮の講習会を受けたんですが、その講習会はウィーンの国立音大で教えてらっしゃる先生でした。それもたまたまだったんですけど。そのご縁で、大学卒業したらウィーンに行きたいと大学2年の頃には相談していたと思います。そしたら「いいんじゃない?」と言ってもらえて。イメージは割と早くからできていました。
ー留学の準備や受験で大変だったことは何ですか?
自分の場合は語学が一番大変でした。もちろん学校の授業でドイツ語は取っていたんですけど、留学するならそれ以上にやらなくてはいけないかなと思い、ゲーテ・インスティテゥートというところに通いました。なかなか入学するのに必要な基準となる点数が取れなくて、日本での試験も2回落ちてしまって…….向こうの音大を受験するときも、音楽の試験と同じように語学の試験もあると聞いたので、そこで点数取れるようにしようと頑張って、いざ試験を受けたんですね。試験当日、係の人が「今から始めます」みたいなことを最初に言った後、ベラベラベラっとしゃべっていて、なんかみんな紙にすごく書いていたんです。みんな何を書いているんだろう?と思ったら、もうそれがすでに書き取りの試験だったみたいで……というのも、聞いたこともないようなウィーン訛りのドイツ語で、日本で習っていたのは、ドイツで話されているいわゆるドイツ語だったんですが、ウィーンは訛りが独特すぎて最初分からなかったんです。当然その試験も落っこってしまい、あと残されたのは、試験が終わってから入学するまでの間に3ヶ月で語学試験にパスしなければなりませんでした。なので、試験後もウィーンに残り、語学学校に通いながら現地で知り合いを作ったり話したりしているうちに、だんだん聞き取れたり喋れるようになって、やっと受かりました。
ー他の準備や書類で必要なものなどは、全て人づてに聞いた感じでしょうか。
そうです。高校を卒業して、すぐ留学した同級生がいたんです。その子に色々聞いたり教えてもらいました。最初の家を契約する時もその人についてきてもらったりして、彼がいなかったらどうにもなりませんでした。たまたまウィーンは日本人が多いところだったので、その同級生に紹介してもらった別の日本人に助けてもらったりして、最初はそういう助けがないと生活が始められない状況でした。募集要項とかは、大学のホームページに英語バージョンあったので辞書引きながら見たんですけど、書いてあることが毎年変わるんですよね。試験の日程も、思っているのと違うことにギリギリになって気づいて……辛すぎてよく覚えていないんですが、試験の日がお仕事と一部重なってしまったことがあったような気がします。とにかく色々な募集要項に色々なことが書いてありすぎちゃって分からなかったから、学校に国際電話かけて直接問い合わせたけど、ドイツ語しか話してもらえなかったりしましたね。
次回、留学体験談や指揮者としての伊藤 翔さんに迫っていきます!